62歳の「挑戦」


西暦
340年頃、東晋の時代62歳でインドに向かい67歳、ひとり無事に帰着した中国東晋時代の僧侶「法顕」。

彼は62歳にして、残された人生の宿題を、「挑戦」という道を選んだ。

 ある、老僧がこんなことを言っていた。
「私を見てもう残された時間は少ないだろうと思ってはいないか。私の話を聴いている君も、もう死は近いと思っているだろう。だけどね、本人は全く考えてもいないんだよ。まだまだ先があると思っているんだね。そんなもんなんだよ。」

誰もが年をとり、老いていく。それを受け入れる、それが自然の摂理である。
その中で人は、選択の道、諦観の道、決断の道を歩み始める。
しかし、法顕は違った。
残された人生の宿題に向かって「挑戦」の道に人生をかけた。
法顕の「挑戦」の道は年齢という規範意識を捨てることだった。
自分の宿題は「自分しかできないこと」その先にあるものは「夢」だった。

もうこの年では「無理」だと思った時点で「老いる」。
40歳でも「夢」が消えたとき「老いる」。
70歳でも「夢」に向かっている人は「若い」。

法顕の夢は「わが国に経典をつくる」ことだった。
「挑戦」は、このとき始まった。

志のあるところ成せざるはない
身命を忘れ、その忘れるところを
重んじたからである。

第1章

空と無

法顕の性格を語るには、幼児期の親子関係をはずすことは出来ない。親とのかかわりは子どもの性格、人格成長、生育過程に大きな影響を与える。そのもっとも大事な時期、法顕はどんな環境にいたのだろうか。

西暦340年頃、東晋の時代であった。
法顕は4人兄弟の末っ子に生まれた。
しかし、上の3人の兄たちは幼くしてなくなった。父親は法顕の夭死を恐れた。幼い法顕を僧侶にすることでこの厄から守ろうとした。3歳になった法顕は沙弥を受ける。沙弥とは髪を剃って十戒を受けた初心の男子をいう。つまり仏に法顕を預けたのだった。この時代の仏教はある種の呪術的な力を持っていた。こうして法顕は自宅にいながら僧侶として、父親に育てられた。この時代母親の力はなかった。

数年後、恐れていたことが起きた。法顕が重い病に倒れたのだった。父親はこれを乗り切るには、自宅では危ないと思った。そしてすぐさま寺に連れて行った。二泊するうちに、病は回復した。

このことで法顕は自分を守ってくれるのは仏だと信じた。自宅に帰らずこのまま寺に残りたいと親に告げるとそのまま寺に残った。

法顕の母親は子どもに会えるように寺に願った。法顕がそれを拒んだ。母親は仕方なく家の門の外に小さな掘立小屋をつくった。家ではないので法顕は寄ってくれるだろうと考えたのだった。法顕は道すがら立ち寄った。母親は喜んだ。

法顕が十歳の時、父親が死んだ。憔悴した母親の姿に、心突き動かされた法顕の叔父が寺を訪れた。「法顕を還俗して家に帰して頂きたい。

この言葉に法顕は「私はすでに出家した身です。家に戻ることはできませ。これはお父さんが生きていた時の約束だからというのでもありません。お父さんが生きている、いないからというものでもありません。私のことは忘れてください。

それから、数年のち、母親は死んだ。
法顕は母親の弔いをすますと、再び寺に戻っていった。
法顕は肉親の親よりも寺を選んだ。寺すなわち仏の力が自分を守ってくれると思った。のちに、62歳になった法顕の命を懸けた「挑戦」はこの時に作られていたのかもしれない。